馬鹿の語源は!?古代中国に見る故事について

  • 2020年8月2日
  • 2020年8月9日
  • 歴史
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中国の長い歴史において様々な出来事や事件がありました。その中には今でも普通に使われている言葉の語源が多々あります。今回は個人的に筆者が知ったときに、面白いと思った故事について歴史背景も含めてご紹介させて頂きます。

 馬鹿

ジャンプをしている鹿のイラスト

馬鹿という言葉ができたきっかけは紀元前約200年に遡ります。当時の中国は始皇帝で有名な秦が王朝を築き、中華全土を収めていました。始皇帝が法による秩序を定め、義務として重労働を人民に強いたことで、民の負担と政府に対する恐怖が大きい時代でもありました。

人民が恐れていたものを一つ上げると連座制があります。この連座制とは罪を犯したものがいた場合、同じグループに属する者は皆罰せられ連帯責任を負わせる法律です。因みにこの後に漢王朝を造った劉邦は、都に年貢を納めに行く途中にグループから脱走者が出て、このまま都に着いても連座制で罰を受けることが確実となったため脱走。そのまま盗賊となるが、タイミング良く各地で秦に対する反乱が起きた為、反乱軍に合流する形でキャリアをスタートさせています。

このような時代背景の中、超高という宦官がいました。宦官といえば、中国の歴史上たびたび現れ、権力欲に憑りつかれ政治を乱す人物が多いですが、超高はその代表格です。超高は始皇帝の信頼が厚いことを良いことに、他の良官を皇帝から遠ざけ自身の権力を高めて行きました。

ある時旅先で死期を悟った始皇帝は、北方に派遣していた長男扶蘇に跡を継ぐよう手紙を書きますが、超高はその手紙をカンニングした上に握り潰します。その後程なくして始皇帝は没し、跡継ぎ候補は長男の扶蘇か、次男の胡亥となりました。超高は御しやすい胡亥を皇帝にするために、策を巡らせて扶蘇を自決に追い込み、胡亥を二代目皇帝に仕立てあげました。こうなると超高としては我が世の春、胡亥に女と酒をあてがっておき政治から遠ざけ、ますます権勢を強めていきました。

この勢いに乗って秦国を乗っ取ってしまいたいと考えた趙高は、自分に付いてくる部下を見極めるための踏み絵を行います。ある余興の際に鹿を連れてきて、これは馬であるが何の動物に見えるかと部下達に問いました。見たまま鹿と答えるものと、趙高に同調して馬と答えるものに分かれました。余興が終わった後、趙高に同調せずに鹿と答えたものを処刑をしてしまいました。

このように、元々馬鹿は権力を笠に「白」を「黒」とするという意味で使われました。時代を経るにつれて意味が変わっていき、現代の馬鹿の意味で使われています。

 阿保

馬鹿にしている人のイラスト

馬鹿に続いて阿保の語源です。こちらも秦の時代に、始皇帝が築いた「阿房宮」からきているといわれています。前述したように秦は人民を駆り出して、万里の長城を始めとする巨大工事に係る人員を法律により強制的に徴集しました。これによる人民の不満と莫大な経費が国力を弱めることに繋がっていきます。

阿房宮は豪華絢爛でとても大きな宮殿だったようで、後に秦を滅ぼした項羽が、阿房宮を焼き払いった際には、その火は3か月間燃え続けたという記述が残っています。歴史書はオーバーに残されることが多いため、3か月はオーバーな記述だとしても、どれ程大きな建物であったか推し量ることは出来ます。文字通り「阿保」程大きい建物を、国力を費やして造った不必要さが、阿呆の語源です。

また秦より後の後漢(三国志)時代の皇帝、劉禅の幼名「阿斗」からきているとの説があります。劉禅の父はわらじ売りから身を立て、蜀を建国した劉備元徳です。三国志演技では主人公で、人徳のある人物として有名です。劉禅の代で蜀は魏に滅ぼされますが、降伏をしたため劉禅は生き残ります。蜀滅亡後ある酒席で蜀が恋しいかと問われ、蜀を守るために死んでいった部下達を厭わず、平然と「魏の居心地が良い為、里心は起こらない」と返答し暗君ぶりを示しました。このようなエピソードもある為、阿斗が阿呆の語源とも言われています。

 牛耳る

打ち出の小槌を振る牛のイラスト(丑年)

現在では集団を意のままに収め、操ることを言いますが、古代中国の「牛耳を執る」から来ています。牛耳を執るとは国家間が同盟を組む際に行う儀式のことです。具体的には生贄の牛を殺し左耳を切って、その血で各国の王が盟約の文章を記し、その後血をすすり、盟約を読み上げることで同盟締結としました。

また、この同盟諸侯のリーダーを「覇者」と言いました。覇者になれば同盟諸国の中で自然立場が強くなり、号令を掛けることが出来るようになるため皆争って覇者になりたがりました。春秋戦国時代の呉の王夫差と晋の王定公の覇者を巡る争いが有名です。

 死者に鞭打つ

いじめをする人のイラスト(男の子)

「死者に鞭打つ」は春秋戦国時代の故事です。伍子胥(ごししょ)は元々楚の国の家臣でありましたが、国王に謀反を疑われて父と兄を殺されてしまいます。伍子胥も命を狙われますが、命からがら呉の国に逃げ延びます。呉に亡命をした伍子胥は復讐の鬼と化し、復讐の機会を伺いました。しかし、復讐を果たすことができないまま楚王が死んでしまいました。この事実に伍子胥は絶望するが、すぐに気を取り直します。それから復讐の対象は楚王から楚国へと変わりました。

呉王からの信頼を得ていた伍子胥は、楚と戦争をする機会がやってくると、天才軍師孫子と共に楚軍を完膚なきまでに破りました。楚の都まで攻めあがった伍子胥は、復讐のために楚王の墓を発きます。そして楚王の死体に鞭打つように命じました。これが「死者に鞭打つ」の語源です。その後は呉国内で内部分裂がおき、戦争どころではなくなった呉軍は兵を引き上げざる得なくなりました。

結果としては楚の都まで落としておきながら、伍子胥の復習が果たされることはありませんでした。

 まとめ

如何でしたでしょか。今回ご紹介をした故事以外にも古代中国には、現在も使われている語源になった出来事が沢山あります。「左遷」や「四面楚歌」は今でも使いう有名な言葉ですね。個人的には結構動物出てくるなーと思いました。その他面白い故事があればまたご紹介させて頂きたいと思います。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

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