日露戦争最大の功労者!?明石元二郎について

  • 2020年7月22日
  • 2020年8月9日
  • 歴史
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日露戦争においての功労者としては、当時最強と言われたバルチック艦隊を破った東郷平八郎、坂の上の雲の主人公である秋山兄弟が有名です。しかし、これらの人物と同様、重要な仕事を成し遂げており、人によっては最大の功労者との評を得ている日本軍人をご紹介致します。

 明石 元二郎(あかし もとじろう)

明石元二郎

出典:明治ガイドhttps://meiji.bakumatsu.org/men/view/28

明石元二郎は日露戦争時にスパイとして活躍しました。当時大佐であった明石は、日露戦争時にはロシア内の反ロシアへ勢力資金援助を行い、ロシア内での革命の機運を扇動。明石が援助を行った反ロシア勢力が中心となり、ロシア革命を起こすに至りました。これによりロシア国内は混乱し、ロシアは戦争継続が困難になりました。戦後この活躍は1師団に相当するとの評価を得ましたが、司馬遼太郎曰く、陸軍か海軍のどちらかの戦力に匹敵をする貢献をしたとの評を得ています。そんな大活躍をした明石元二郎とはどのような人物なのでしょうか。

 明石元二郎の生い立ち

明石は1864年に福岡藩の藩士、明石助九郎の次男として誕生しました。その後陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、ドイツ留学を経験します。その後もマニラ観戦武官、フランス公使館付陸軍武官、1902年にはロシア公使館付陸軍武官と海外での仕事を歴任しました。この経験が明石の国際感覚を磨きました。日露開戦後は上記の通り、資金援助を通じてロシア革命を扇動しました。この時に明石は社会主義運動を行っていたレーニンにも資金援助を行っており、後にレーニンは、明石には感謝状を出したい程感謝していると語りました。後に明石は陸軍大将にまで昇進をしています。なぜ明石はこのような大仕事を成し遂げることができたのでしょうか。ここでは明石が大仕事を成し遂げるに至った突出した能力と、要素についてご紹介をさせて頂きます。

 明石元二郎の凄さ

①言語能力

明石はフランス語・ドイツ語・ロシア語・英語をマスターしていました。これは若い時からのヨーロッパ留学をしていたこともありますが、明石の才能と努力によるものが大きいと考えられます。5か国語を話せる国際人材は、それだけでも当時の日本としては大切な人材であったと言えるでしょう。明石の語学力が分かるエピソードとして、とあるパーティでドイツ士官から「ドイツ語は話せますか?」とフランス語で聞かれた明石は、あえて下手なフランス語で「やっとフランス語が話せる程度です。」と返答しました。これを聞いたドイツ士官は安心して、ロシア士官とドイツ語で機密情報を話し始めました。この会話の一部始終を明石は聞きながら、内容を完璧に理解をし、本国に報告をしました。この言語能力はスパイ活動にも大いに役立ったことでしょう。

⓶熱中力(集中力)

明石の好きな事に取り組む際や、目標達成に向けて取り組む際の集中力は群を抜いていました。それは病的と言える程でした。あるとき明石は陸軍のドン、山県有朋と話す機会がありました。ここぞとばかりに自身の論を展開する明石。その集中は凄まじく、長時間している話をしている最中、放尿をしてしまっており、ズボンがぐしょぐしょに濡れましたが、そのことに気づかず熱中して話を続けました。この余りの集中力に山県は注意できなったという…。このような点は現代では非常識とされ、非難をされるようなことですが、この時代の天才達にはこのようなエピソードが多数あります。これは今よりも人がおおらかであったということもあるでしょうが、使う側の人間にしても国家の大事の時であり、人格よりも才能を重要視して登用を行っていたのでしょう。この集中力が語学習得や得意の図学にも活かされました。ロシア革命という歴史に残る、革命を起こす構想力と、その目的達成に向けた熱中力なくして、日本の大勝利はなかったかも知れません。人間性と能力が分かるエピソードをいくつか紹介させて頂きます。

③豊富な資金力

明石のロシア内で果たした主な仕事は、反ロシア勢力への資金援助です。その為、明石には任務遂行のための資金として開戦時に100万円の資金が送られています。この金額は現在の紙幣価値に換算すると、実に2000億円を超える大金であり、当時血を吐くような思いで軍費を捻出していた日本政府からすると、明石が一身に背負った任務の重要性が伺えます。

 まとめ

国家の大事を背負っていた明石ですが、スパイらしくなかったとのエピソードもいくつかあります。第一にスパイとして白羽の矢が立ったのは、日露戦争時、参謀長であった児玉源太郎の一存で、その他の者はそれまでスパイ経験のなかった明石に任せることは懐疑的であったようです。また、開戦直後も普通のホテルに本名で宿泊をしており、仲間から注意されてやっとホテルも移りました。開戦時に児玉より秘密指令を受け取った時の明石には、まさに経験もなく、人脈も仲間もまったくないという状況だったのです。その為反ロシア組織リーダーと連絡を取るために、若い通訳生に手紙を託したり、危険を承知で反ロシア組織の集会にも自ら参加しました。後に「俺にはそれしか出来なかった。危険を承知で、目をつぶって飛び込むしかなかった。」と語りました。このバイタリティーと行動力は今の私達も見習うべきことが多大にありますね。

 

 

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